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引越しをする。必要なものと不要なものを選り分け、不要なものはもちろん、邪魔になるだけなので捨てる。長い間使っていなかったり、ぼろくなってきたものは、ここぞとばかりに整理されるものである。
もちろん、引き続き使うものは残る。生活必需品はさておき、懐かしい品、大事な品、記念の品、などなど。 しかし捨てるかどうか迷う場合がある。その場合どこからが捨てるラインになるのだろうか。

一時はとても大切にしていて、肌身離さず「一生もの」と自慢していたものも、果たしていつまでそうありつづけるだろうか。そしてあれも大事、これも大事、とするあまり、身動きがとりにくくなったりはしていないだろうか。(ダウンロードした古いデータが一杯で新しいデータが入らないハードディスクのような状態。いつか役に立つかもしれない、という気持ちももちろんよく分かるのだが)

生きているうちに何か目に見えるものを、活用できる時間も量も限られている。なんでもかんでも保存しておいたところで、死んでしまえば棺おけまではもっていけない。(物理的には入るだろうが、死んでからは使えないの意)今一度、自分に「今」必要なものは何か考え、チョイスしていくというプロセスが時には人間には必要なのではないだろうか。いわゆる棚卸である。

考え方を広げればそれは毎日の仕事などにもあてはまる。もったいないという気持ちはどこにでもある、それをあえて受け入れ取捨選択していかなければ新しいものも手に入らないのではないだろうか。

あれもこれもと取っておいて、より広い部屋の家に引っ越して続けることが果たして意味があることなのか。その振り返りから見えてくるものもある。
1年くらい前に勢いだけで書いた過去の文章を読み返すとなんともいえない気持ちになるのだが、それを残すのもまた一興と思うので、今日は今日とてまた駄文をおこすのであった。それにしてもなんか同じような話ばかり書いているような・・・・。
自分は日々どれくらい進歩しているのだろうか。なにげなく毎日を過ごしていれば、大抵、同じように毎日は過ぎて行き、時間なんていくらあっても同じことになる。ただ年を取るのみ。

例えば今年で東京にきて4年経ったのだが、大学の時にすごした4年間、それと比べて成長しただろうか、充実した時間を送れただろうか、とか。そんなこと考えることすら面倒になるのが普通かもしれないが。しかし、成長の度合いを絶対値で計るのは難しいと思う。何を持って成長したと言えるのか。いろんな土地へいってみる、いろんな人と出会ってみる、いろんなものを食べてみる、いろんな考え方に触れてみる、etc... どんな形でも良いので、昨日の自分とは違った自分を受け入れることではないか、と思う。

そうはいっても日々、そういうことを意識して過ごすのは、楽ではないのだが、まんざら悪いことでもないと思う。去年からジムカーナを始めたのだが、やっていて学ぶことに「なんとなく走るな」といわれる。スタート地点からパイロンまで、だらだらと加速してだらだらブレーキをかける。それではタイムにはつながらないし車のパワーも使いきっていない。メリハリが大切なのだ。競技・レース・大会の場合は、その時々がチャンスとして一度しかなく限りなく集中しないといけない。日常においてあまり無いことではないだろうか。

誰しも翌日に死ぬとは思っていないし、まっとうな神経であれば今日と同じ明日がくると信じてやまない。確かにそうとでも思っていなければ、安心して眠ることもできないのだからやむをえない面もあろう。しかし、仮に寿命がもしもあと1日だったら、自分はなにをするだろうか。何にどれだけの力を発揮するだろうか。今までと違う1日を過ごせるだろうか。

人の死とは普段かけ離れたところにいるだけに、人の死からふとそんなことを考えてみる日もある。
2007.11.24  自意識不足
カジュアルデーに会社がなった。

それ自体は素直に喜ぶべきことなのだが、単に私服になればいいのかというと、どうもそうではない。「何を着るか」も大事だが、「どう見られるか」も大事だと思うのだ。
無人島に住んでない限り、自分の振る舞いが他人にまったく影響を及ぼさない、ということはあり得ない。しかしこれが慣れてくるとだんだん何も感じなくなるものだ。人間とは慣れていく生き物だ。慣れていくことはあっても反対は無い。エネルギーが増えていくことは無いのと似ているように感じる。

適度な緊張感は能力を発揮するのに必要なファクターの1つだと思う。緊張しすぎてもだめ、ゆるみっぱなしもダメ。中学の頃、バドミントンの試合があったのだが、始まるまではすごい緊張しているのだが試合がはじまるといい具合に力が抜け、実力を発揮できた、という経験も元になっている。

例えば会社に行くときに、もしスーツが基本だった場合、いつものスーツ、いつものネクタイ、いつもの革靴で、自分が他人からどう見られているかなんて意識しないのがまぁ普通のサラリーマンであろう。逆に、アロハシャツ、短パン、サンダルOKの会社でも同様に自分を意識することは無いだろう。

スーツでも良い、私服でもいい、ビジネスカジュアルでも良い、つまり、押し付けではなく、その人の意思でその服装を選んでいる、ということを評価されるという適度の緊張感。服選びに神経質になりすぎて仕事に支障をきたしたら本末転倒だが、そういう機会が社会人になると少なくなっていくのではないだろうか。

自意識過剰ではなく、自意識不足。自分の服装なんて初めてのデートのときくらいしか気にしないという人。ちょっと振り返ってみても面白いのではないかと思う。
先日のチーズを捜し求める話を読んでみて、なんとなく普段思っていることの少しを解明できた気がする。人が恐れるのは本能的に変わることであり、無意識のうちに変わらないでいることを求めるようにできているのかもしれない、ということだ。わかりやすく言えば明日を変えることは怖いと思うようにできているということだ。
ざっくり言えば「保守的」か「革新的」か?なのだが、それらの言葉だけからは思いもよらないようなところにまで影響があるのでは、と感じずにはいられない。

例えば、、、好きになった異性に自分の気持ちを告白するとき、、、転職するために会社を辞めるとき上司に報告するとき、、、大事な学校の入試に挑むとき、、、それらをしなければ、今日と変わらない明日がくるのだから、その瞬間は「なんで俺がこんな目に」と思うくらいプレッシャーを感じるはずだ。

しかしそれを乗り越える努力を怠れば、一見同じようで今日よりもネガティブな明日を受け入れることになり、いつか、より大きなプレッシャーと対峙しなければならない日がくるような気がする。

別の事象を例に考える。クローン人間の技術が完成したとする(いつもながら極端だが)多くの人は「危険だ、やめろ」というに違いない(※ちなみに自分はクローンを推奨しているわけではない)それは自分の生きている「今」という時間がおびやかされる可能性が高くなるからではないか?今日と同じ平穏な日が明日こないかもしれないからではないか?確かにその可能性は0ではない。しかし、それによって今までにはなかった感動を手にいれることができるかもしれないとしたら。。。

小さなことで言えば、お昼に食べにいくお店でもいい。いきつけの店にいけば、知ってる味にありつける。しかし、新しい店にいけば大ハズレをひくかもしれないし、今までで最高に美味な食べ物に巡りあえるかもしれないのだ。

変わることを好む度合いは人それぞれであるので、変化を好む人間に「気移りしすぎだ」といったり、そうでない人間に「もっといろいろやれば」といってもナンセンスなのかもしれない。周りにそんな男とわかれちゃえよ、と言われても別れられない理由の1つには「明日の変化への恐怖」がないだろうか?「手に入れた幸せを失うことに対する恐怖」がないだろうか?

自分が不思議に思うのは、変化へ対する恐怖が人にはなぜあるのか?である。だが、、、もしそれが無かったとしたら・・・もっと地球は早く滅んでいたかもしれない。だから今までの繁栄をするにはバランスのよいレベルだったのかもしれない。しかし、それはあくまで今までの話。日々環境の変わる今、必要な変化、もとい、変化を受け入れるちょうどいいレベルとはなんなんだろう。保守か、革新か。この理屈だけで色々な事象が説明できると思うのだが、今回はこれにて。
2007.11.24  人生の勝ち負け
「成功の秘訣」とか、「勝ち組み・負け組み」などの言葉を聞くことがある。人生において、成功とか失敗とか、勝ちとか負けとかってなんだろう。事業の成功。自分の作ったものがどんどん売れる。好きな人と結婚した、そういうことだろうか。
例えば転職を考える。成功か失敗か。転職後に「転職してよかったか?」などと聞かれた場合。成功だ、失敗だ、と即答できるだろうか。。。長いスパンで人生を見た場合にはより難しく、例えば小さい失敗のあとに大きな成功があったりもする。

それでは普段の日常を何を目標に、何を指針に生きていけばいいのか?大切なことは何なのか。今の自分で言えることは「小さいことにくよくよしない」、ということに尽きると思う。そんな名前の本が売れていたことがあったが、いつまでも失敗したことを引きずっていれば、次の成功のチャンスすら逃してしまいかねないからだ。(あくまで経験則で、だが)

ただここで気を付けないといけないのは「儲かること」「有名になること」「怒られないこと」が常に真ではないということ。失敗しても良いし、格好悪くても良い。ついていないと思ってもそんな日が永遠に続くわけではない。

しかし、逆に毎日がダラダラしていてもいけない。今日という日は永遠には続かないが、今日という日は今日しかないのだから。。。

そして付け加えるのであれば、損得勘定だけではなく、生活を豊かにする、という理由でお金や時間をかけてみるのも、とても大切ということだ。ふと立ち止まり、自分の立ち位置を確認する時間が今は少なすぎるのではないだろうか。
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